『弘明集』を読む(2)
僧祐「序」(2)
しかれども みち だいなれば しん かたく こえ たかければ わ すくなし
然れども、道大なれば信難く、声高ければ和寡し。
しかし、〔仏の〕真理(道)が偉大であればあるほど、信じることは難しくなり、〔仏の〕名声が高ければ高いほど、共存はありえなくなる。
しゅみ しゅんにして らんぷう おこり ほうぞう つんで おんぞく しょうず
須弥(1)俊にして藍風起り、宝蔵積んで怨族生ず。
須弥山は厳しくそびえ立っているから、暴風がつねに吹き荒れ、宝物庫には財宝が山のように積まれているから、盗賊がつねにつけ狙う。
- 【須弥】須弥山(しゅみせん)。仏教の宇宙観において、世界の中心にあるとされる巨大な山。
むかし にょらい ざいせし け だいせんに ふるうも
昔、如来在世し、化大千(1)に震ふも、
昔、如来(仏)がこの世におられたとき(正法)、その教化は三千大千世界すべてを震撼させたが、
- 【大千】三千大千世界。仏教の宇宙観における広大な宇宙のこと。
なお しま ふんを たくわえ ろくし どくを いだく
猶ほ四魔(1)忿を稸え、六師(2)毒を懐く。
それでもなお、〔人々の心を迷わせる〕四種の悪魔たちは、〔欲望・苦しみ・恐怖・悪心という〕負の感情を〔人々に〕起こさせつづけ、〔邪説を広める〕六人の外道たちは、害毒のある誤った教えを〔人々に〕説きつづけた。
いわんや ぞうきをや それ すぐるべけんや
況や像季(1)をや。其れ勝るべけんや。
ましてや、〔如来(仏)がこの世におられない〕像法の末期〔に当たる今〕では、その状況は良くなっているであろうか。〔いや、ますますひどくなっている。〕
- 【像季】像法(ぞうぼう)。釈尊が入滅してから500(または1000)年間は正法(しょうぼう)と呼ばれ、釈尊の教えと修行とさとりの三つがそろっている時代。その後1000年続くのが像法という時代で、教えと修行は残っているがさとりを完成することはできない。そして像法のあと一万年続くと言われているのが末法(まっぽう)である。末法においては教えのみが残り、修行もさとりもなく、やがて教えさえも消える法滅の時代を迎える。したがって像法時代の人々は、末法の到来に強い危機感を覚えていた。
《今回のポイント》
僧祐は、時代が正法→像法→末法へと至り、仏法が滅びてしまうことを危惧している。