『弘明集』を読む(4)
僧祐「序」(4)
しゅぶんの こくじゅは すなわち こばんで いきょうと なし
守文の曲儒は、則ち拒んで異教と為し、
古典の解釈ばかりしている儒学者たちは、〔仏法を〕拒んで「異国の教えだ」と言い、
こうげんの さどうは すなわち ひきて どうほうと なすに いたりては
巧言の左道は、則ち引きて同法と為すに至りては、
言葉巧みに取り入るだけの道家たちは、〔仏法に〕近づいてきて「同じ教えだ」と言う。
こばむに ばっぽんの めい あり ひくに しゅしの らん あり
拒むに抜本の迷有り、引くに朱紫の乱有り。
〔仏法を〕拒んで〔「異国の教えだ」と言う〕のは、〔仏法に対する〕根本的な誤解があるからであり、〔仏法に〕近づいてきて〔「同じ教えだ」と言う〕のは、朱色と紫色の区別もつかないほど混乱しているからである。
ついに きろんをして しょうしょう しげく
遂に詭論をして稍々繁く、
こうして、〔儒学者たちによる〕誤解によって作られた批判的意見は、ますます複雑なものになり、
きべんをして はなはだ さかんならしむ
訛弁をして孔だ熾んならしむ。
〔道家たちによる〕混乱によって作られた同調的意見は、ますます盛んになったのである。
《今回のポイント》
仏教に対して儒教と道教は、実に対照的な態度を取っていたが、共通するのは、仏教を誤解していたということである。儒教と道教は仏教を誤解したまま、それぞれの見解をさらに発展させていってしまった。