Buddhist Narratology Laboratory

「答えのない時代に、共に答えを作る」をモットーに仏典を読んでいきます。

『弘明集』を読む(15)

牟子『理惑論』(6)序伝⑥

 

ぼくの おとうと よしょうの たいしゅと なり
牧の弟、予章(1)の太守と為り、
交州の長官(州牧)の弟は、予章の太守であったが、

  1. 【予章】予章郡。現在の江西省北部。

 

 

ちゅうろうしょう さくゆうの ために ころさる
中郎将(1)笮融(2)の為に殺さる。
中郎将の笮融〔の裏切り〕によって殺された。

  1. 【中郎将】中国の官職名。宮廷の警護にあたる役で、将軍次ぐ位だった。
  2. 【笮融】後漢末期の武将。仏教寺院を造営したりと仏教徒として有名であったが、実際は仏教を利用して兵を集めていただけではないかと言われている。

 

 

ときに ぼくは きとい りゅうげんをして へいを ひきいて これに おもむかしむ
時に牧は騎都尉(1)劉彦をして兵を将ゐて之に赴かしむ。
交州の長官(州牧)は騎都尉劉彦に命じて軍隊を率いて〔予章に〕攻め込もうとしていた。

  1. 【騎都尉】中国の官職名。

 

 

がいかい あいうたがいて へい すすむことを えざるを おそれ
外界相疑ひて兵進むことを得ざるを恐れ、
〔ただ、大軍を率いて予章に向けて移動をすることよって、〕他の州郡から〔こちらに攻め込んでくるのはないかという〕疑いをかけられ、その領地を通過することができなくってしまうことを心配し、

 

 

ぼく すなわち ぼうしに こうて いわく
牧乃ち牟子に請うて曰く、
交州の長官(州牧)は、牟子に〔次のように〕お願いをした。

 

 

《今回のポイント》
交州の長官(州牧)の近況の説明がまずあり、彼の弟が笮融という卑劣漢によって裏切りに遭い、殺されてしまった。また、弟のかたき討ちをしたいが、笮融のいる予章に行くためには、途中、他の領地を通過する必要がある。そのときに、攻め込んでくるのではないか、と疑われてしまった場合、通ることができなくなり、そのことを心配しているという。

 

 

『弘明集』を読む(14)

牟子『理惑論』(5)序伝⑤

 

ぼうし おもえらく えいしゃくは ゆずり やすきも しめいは じしがたし

牟子以為へらく、栄爵(1)は譲り易きも、使命は辞し難し。
牟子は、〔次のように〕思った。「地位や名誉などというものは断ることは簡単だが、〔表敬訪問の〕使節としての命を辞退することはできない。

  1. 【栄爵】名誉ある貴い地位。

 

 

ついに げんに まさに いくべしと
遂に厳に当に行くべしと。
万全の準備をして〔荊州使節として〕行くしかない。」

 

 

たまたま しゅうぼくに ゆうぶんの しょしとして これを めされたれば
会々州牧(1)に優文(2)の処士(3)として之を辟されたば、
〔しかし、そのとき牟子は、〕偶然、交州の長官(州牧)から、「優れた文章力を持っていながらも仕官していない(就職していない)者」として招かれ、

  1. 【州牧】州の長官。ここでは交州の長官。
  2. 【優文】文章を書くことに秀でていること。
  3. 【処士】仕官していない、民間の人。在野の人。

 

 

また しつと しょうして たたず
復た疾と称して起ず。
〔あるお願いをされたために、蒼梧の太守から依頼されていた使節としての仕事を、〕「病気になった」と言って断った。

 

 

《今回のポイント》
牟子は単なる役人として働くというのは断れても、使節としての仕事は断れないとして、この依頼を引き受けることにする。また、牟子は、蒼梧の太守から使節としての仕事を頼まれて出発間際で来ていたが、そのときに、交州の長官(牧)から呼ばれ、別の仕事を頼まれる。それによって、蒼梧の太守からの仕事を断ることになる。

 

 

『弘明集』を読む(13)

牟子『理惑論』(4)序伝④

 

たいしゅ その しゅがくなるを きき えっして しょりを こう
太守其の守学なるを聞き、謁して署吏(1)を請ふ。
〔蒼梧の〕太守は、〔牟子が〕学問に非常に優れているという話を聞き、〔牟子を〕訪ねて役人になるよう頼んだ。

  1. 【署吏】役人として任命されること。

 

 

ときに とし まさに さかんにして しがくに せいなり
時に年方に盛んにして、志学に精なり。
〔しかし、牟子は〕年若く、血気盛んで、学問を極めたいという希望に燃えていた。

 


また せらんを み しかんの い なく ついに つかず
又、世乱を見、仕宦の意無く、竟遂に就かず。
また、世の中が乱れているありさまを目をして、仕官しようという気持ちも起こらず、結局、〔役人に〕なることはなかった。

 


この とき しょしゅうぐん あいうたがいて かくそく つうぜず
是の時、諸州郡、相疑ひて隔塞(1)通ぜず。
ちょうどこの頃は、諸州郡は、お互いに警戒し合い、交通までもが止まってしまっていた。

  1. 【隔塞】道がふさがれて、交通が止められ、意思疎通もできないこと。

 

 

たいしゅ その はくがく たしきなるを もって けいを けいしゅうに いたさしむ
太守其の博学多識なるを以て、敬(1)荊州(2)に致さしむ。
〔蒼梧の〕太守は、〔牟子が〕博学でさまざまな知識を持っているのを見込んで、荊州に表敬訪問の〔使節として〕派遣を依頼した。

  1. 【敬】表敬訪問。
  2.  【荊州】交州の北に位置する州。

 

 

《今回のポイント》
牟子は知識人としての能力を買われ、役人にならないかとの誘いが来たが、結局、当時の世の中が乱れていたこともあり、断っている。また、蒼梧の太守は、牟子に役人として勤めることについては断られたのにもかかわらず、今度は、他州への使節をしてくれないかと依頼をする。牟子が世間からかなり高い評価を得ていた証拠であろう。

 

 

『弘明集』を読む(12)

牟子『理惑論』(3)序伝③

 

ぼうし つねに ごきょうを もって これを なんずるも
牟子常に五経(1)を以て之を難ずるも、
牟子は、〔彼らに対して〕つねに〔儒教の経典である〕五経(『易経』・『書経』・『詩経』・『礼記』・『春秋』)を用いて道術士たちを批判したが、

  1. 五経儒教において尊重される五つの経書。『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』をいう。

 

 

どうか じゅつし あえて これに あたうる なし
道家術士(1)、敢て焉に対ふる莫し。
道教の道術士たちは、あえてその批判に応えようとはしなかった。

  1. 【術士】方術士。ここでは神仙術を扱う者のこと。

 

 

これを もうかの ようしゅ ぼくてきを ふせぐに ひす
之を孟軻(1)の楊朱墨翟(2)を距ぐに比す。
これを〔世の人々は、儒家の〕孟子が楊朱や墨子の説を退けたことに匹敵すると称賛した。

  1. 【孟軻】儒家孟子の本名。
  2. 【楊朱墨翟】「楊朱」は老子の弟子と言われる人物で、徹底した個人主義と快楽主義を説いた。「墨翟」は「墨子」の本名。博愛主義を説く。儒家は、楊朱の思想は君主をないがしろにし、墨翟の思想は父をないがしろにするとして、両者を批判した。

 

 

この ときより さき ぼうし ははを もって よを こうしに さく
是の時より先、牟子、母を将って世を交趾(1)に避く。
このときより、牟子は母を連れて、戦乱の世を避けるために交趾に来ていた。

  1. 【交趾】交趾郡。現在のベトナム北部トンキン・ハノイ地方の古称。

 

 

とし にじゅうろく そうごに かえりて つまを めとる
年二十六、蒼梧に帰りて妻を娶る。
二十六歳のときに、蒼梧に帰り、結婚した。

 

 

《今回のポイント》
このときはまだ、牟子は儒教側に立っており、道術士を論破して、称賛を受けている。その後、この立場が変わっていくことになる。また、ここには、牟子が妻帯したとあるが、どのようにして生計を立てていたかは不明である。

 

 

『弘明集』を読む(11)

牟子『理惑論』(2)序伝②

 

このとき れいてい ほうご てんか じょうらんし
是の時霊帝(1)崩後、天下擾乱(2)し、
この頃、霊帝崩御されたことにより、世の中が乱れてきていたが、

  1. 霊帝後漢の第12代皇帝。
  2. 【擾乱】入り乱れて騒ぐこと。

 

 

ひとり こうしゅうのみ やや やすらかにして
独り交州(1)のみ差安かにして、
交州だけはまだ平穏が保たれていたので、

  1. 【交州】現在の北ベトナムおよび中国の広東・広西の一部の古称。

 

 

ほっぽうの いじん みな きたって これに あり
北方の異人、咸な来って焉に在り。
北方の道術士たちはみんな、〔交州に〕移動してきて、この地に住み着いていた。

 

 

おおくは しんせんの へきこく ちょうせいの じゅつを なす
多くは神仙の辟穀(1)長生の術を為す。
〔その道術士たちの〕多くは、神仙思想の書物に説かれるところの「穀物を食べない」という長生の術を実践していた。

  1. 【辟穀】「辟」は「避ける」、「穀」は「穀物」の意。神仙術のひとつ。穀物が体内で消化されるとそのカスから「濁気」(だくき。けがれた気)が生じて病気の原因になるので、穀物のかわりに松の実やきのこ、薬草を食べる。

 

 

じじん おおく まなぶ もの あり
時人多く学ぶ者有り。
そして、当時の人々のなかには、彼らの説を学ぶ者も多かった。

 

 

《今回のポイント》
ここでは、世の中が乱れていたときに、交州だけが戦乱に巻き込まれておらず、平穏であったため、北方から道術士たちがこぞって避難してきていたとある。また、当時すでに、「穀物を食べないこと」(糖質制限)が長生の術(長生きする方法、健康法)として、世の中の人々に広く受け容れられていたことがわかる。

 

 

『弘明集』を読む(10)

牟子『理惑論』(1)序伝①

 

りわくろん
理惑論
世の人々の「無理解」を鎮めるための書

 


いちに いう そうご たいしゅ ぼうし はくでん
一に云ふ、蒼梧(1)太守(2)牟子(3)博伝
一説には、蒼梧の太守であった牟子博による注釈書

  1. 【蒼梧】蒼梧郡。かつて中国南部に存在した郡で、現在の広西チワン族自治区あたりを指す。交州(現在の北ベトナムおよび中国の広東・広西の一部の古称)に属する。
  2. 【太守】郡の長官。ただ、『理惑論』の冒頭に記された牟子の半生を見る限りは、牟子が蒼梧郡の長官であったという記述は見られない。
  3.  【牟子】中国古代の思想家。生没年不明だが、『理惑論』の冒頭にある牟子の伝記には、後漢の第12代皇帝霊帝崩御に関する記述があることから、後漢末の人物であると推定されている。儒家思想を中心に、その他の諸子百家、兵法、さらには神仙(不老不死の仙人に対する信仰)に関するものまで広く学んだ人である。霊帝崩御後の世の混乱を避けて一度交州(ベトナム)へ赴き、その後帰国して結婚したが、士官には就かなかった。

 

ぼうし すでに きょう でん しょしを おさめ
牟子既に経伝諸子(1)を修め、
牟子はこれまでに儒家の経典や注釈書、諸子百家のあらゆる思想書を学び、

  1. 【経伝諸子】「経伝」は儒教の経典(けいてん)とその注釈書。「諸子」は諸子百家の略で、儒家以外の中国の様々な思想家たちの書物を指す。

 

 

しょは だいしょうと なく これを このまざるは なし
書は大小と無く、之を好まざるは靡し。
書物であれば、長編であろうと、短編であろうと関係なく、なんでも好んで〔読んで〕いた。

 


ひょうほうを たのしまずと いえども しかも なお これを よむ
兵法(1)を楽しまずと雖も、然も猶ほ焉を読む。
兵法書はあまり好きではなかったが、それでもなお〔兵法書も〕読んだ。

  1. 【兵法】中国古代に発達した戦闘に関する学問。

 

 

しんせん ふしの しょを よむと いえども おさえて しんぜず
神仙不死(1)の書を読むと雖も、抑へて信ぜず。
神仙の不老不死について書かれた書物も読んだが、特に興味も起こらず、信じることができなかった。

  1. 【神仙】不老不死の存在。修行によって自ら神仙になろうとする中国の神秘的思想を、神仙説とか神仙思想という。のちに道教と集合する。

 

 

もって きょたんと なす
以て虚誕(1)と為す。
ただの妄想としか思えなかった。

  1. 【虚誕】根拠のないでたらめ。

 

 

《今回のポイント》
この「序伝」では、初め、牟子は道術士を徹底的に批判している。しかし、その後、牟子は仏教や道教について研究を始めることになる。これに対して、かつて牟子を孟子の再来として称賛した人々は、牟子が堕落したと非難した。牟子はこうした非難に対し、世の人々の「無理解」(惑)を「鎮める」(理=治)ために『理惑論』を作成した。ここでは、牟子があらゆる分野の書物を読んでいたことが語られている。兵法書のような、あまり好みでない内容のものまで読んでいたとある。また、神仙思想の書物を読んでみても、牟子は特に興味を持てなかったようである。ただの荒唐無稽な説としか感じなかったのであろう。

 

 

『弘明集』を読む(9)

僧祐「序」(9)【完】

 

かねて せんかいに したがい ろんを まつに ふす

兼ねて浅懐に率い、論を末に附す。

僭越ながら、〔わたくし僧祐も〕鄙見を述べさせていただいた。巻末に『弘明論』(後序)として載せたものがそうである。

  


こいねがわくは けんあいを もって かすかながら えいたいを たすけん

庶くは涓埃(1)を以て、微かながら瀛岱(2)を裨けん。

どうか願わくは、ほんの一滴のしずく、ひと粒のほこりのような〔ちっぽけなこの作品〕によって、わずかであっても大海の水量が増え、泰山の標高が増すことにつながらんことを。

  1. 【涓埃】しずくとちり。『周書』には「涓埃之功」(けんあいのこう)という用例がある。自分の努力や功績を謙遜して言うときに用いられる。
  2.  【瀛岱】「瀛」は大きな海。「岱」は「泰山」(たいざん)のこと。中国五大名山のひとつ。皇帝が天と地に即位を知らせ、天下泰平を感謝する「封禅の儀」を執り行う神聖な山である。

 

 

ただ がく こに しき かにして へんきょくに あるを はず

但だ学孤に識寡にして、褊局に在るを愧ず。

ただ、〔わたくし僧祐の〕学問は、一人よがりでしかない上に、知識も乏しく、視野も狭いことを恥ずかしく思う。

 


はくれんの くんし ぞうこうを めぐめよ

博練の君子増広を恵めよ。

〔さまざまな学問・技芸に通じ、その奥義を極めた〕博雅練達の偉大なる人物が、〔後世、〕この書をさらに増広されんことを〔切に願う〕。

 

 

《今回のポイント》

『弘明集』の最後に掲載されている「後序」は別名『弘明論』とも言う。少しでも仏法流布が進展してほしいという願いが、比喩を用いながら述べられている。また、最後に、僧祐は、未来の人たちに、さらにこの『弘明集』を増やして(仏法を絶やさぬようにして)ほしいという祈りの言葉をもって「序」を終わっている。(実際、その後、道宣(596-667)によって『広弘明集』が編纂され、この祈りは叶った。)